※この記事は東日本大震災関連のものです。被災者に対して不快な思いをさせない最大限配慮した記事を書きますが、どうしてもつらいものは当事者にしかわからないものもあり絶対的保証はできません。その点を留意したうえでお読みいただければ幸いです。それでも当事者の配慮には最大限の努力に努めてまいります。よろしくお願いいたします。
どうも、youmyanでございます。さて前回お話した通り、東北遠征5日目に訪れた話について書いていきます。舞台は福島県双葉町です。そう、このまちには福島第一原子力発電所がある場所です。あの事故から10年たった今でも町域の多くが帰宅困難区域に指定されています。それでも、2020年にやっと町内に特別な許可が無くても足を踏み入れる地域ができました。着実に復興に向けて歩みだしている双葉町に行ったお話を通じて東日本大震災と原子力災害について私が見聞きしたことを書いていきたいと思います。
(今回書く双葉町訪問記ですが3月に行っただけだと書けることが少ないと思ったので7月に再度訪れた時のことを中心に書いていきます。)
・7月23日
私はこの日の午前中、今年2度目の双葉駅へと 降りたった。私の地元茨城の幹線である常磐線と同じ路線、茨城から北に向かうと当駅はある。東日本大震災で長らく不通であった富岡駅~浪江駅は昨年度(2020年度)にやっと復旧を果たし約9年ぶりに常磐線前線開通したことが記憶に新しい。この不通区間にあった双葉駅は写真の通り新しく生まれ変わっていました。しかしながら、この写真にも写っている放射線量計はこの地が背負っている過去を重く思わせるものがあったことは否めないです。
双葉駅には西口、東口(海側)があって基本的にメインは東口になるのですが、西口は現在は写真のように工事を行っており、将来的には住民が戻ってこれるように整備を進めており西口も将来的には使われるようです。因みに奥に見える黒い土嚢袋はすべて汚染土が入っており、まちでは至るとこことで見受けられます。こういった、汚染土の留置所や処分場の問題などまだまだ課題は多く残っているようです。
こちらが、双葉駅の玄関口となっている東口です。昔は左側の建物が双葉駅舎として使われていました。現在は、町の情報を伝えるブースとなっています。
この旧駅舎の時計ですが2時46分ごろを指して止まっていますが、これは地震が発生して電気が来なくなりそれ以来10年以上止まったのようです。本来ならば下のからくり部分が0分になるとからくり時計として何かアクションがあるのでしょうが、もう見れる日はきっと来ないのでしょうか。。どんなからくりがあったのか少し気になります。
目的地である東日本大震災・原子力災害伝承館へはこのだるまさん(双葉町の双葉のだるまがモチーフのキャラクター「双葉だるまさん」らしい。)が描かれたかわいいバスで向かいます。このバスは片道200円(私が最初に行った3月までは無料だった。)で電車の到着に合わせて運行してくれるので便利です。あとは、駅でレンタルサイクルもやっていて(現在は休止中)そちらでも行けます。
(写真ですが行った日付けが違うので天気がばらばらです。ご了承ください。)
バスで揺られること数分で伝承館及び産業交流センタ―に着きます。
この一角だけが真新しい感じで震災復興の拠点として機能しているようです。
私はまず伝承館の方へ足を延ばしました。当館では原子力災害のあったこの地域での出来事や原子力発電との関わり、そして今後の課題、そして未来について一般の方でも分かるようにパネルや模型、映像などを用いて解説されていました。
中でも一番の印象として語り部さんによる震災当時のお話が聞けるということが大きいと思います。毎日2人ずつ違った方がご講演くださって、私が行った3月は大熊町の当時の職員さん、7月に行ったときには双葉町の町民の方と南相馬市の方の津波体験の話を伺いました。
これらの話はとても貴重なもので、震災でとてもつらい思いをされながらも私たち来客に向けてお話をして下さるのは、「伝えたい」、「知ってほしい」、「二度と同じ過ちを起こしてほしくない」といった共通な想いがあると感じました。震災から10年が経とうとしていますが、メディアは震災復興したところばかり、キレイなところばかり映して終わらせようとしていますが、実際は双葉町みたいにまだ復興が全然進んでいないところとかあんまり知られていない現状が多い気がします。実際のところこれを読んでる方で双葉町や大熊町に普通の人が立ち入れる場所ができていることすら知らない人もいるのではないかと思います。
こういった現状や震災当時のリアルな話を知ってもらうことによって未来に同じ過ちを犯してほしくないという願いを込めてお話をしてくださってると私は思いました。
本当ならば、お話の内容を詳しく書きたいと思ったのですがなかなかまとまらない(あまりにもリアルすぎて文字で書き起こすのは私には無理)のと、ぜひ一度こちらの施設にあしを運んでいただいて直接お話を聞いていただいた方が心に響くものがあると思ったのであえて書きません。
皆さんもコロナ化が落ち着いたらぜひ訪れると良いと思います。
ちょうど、お話を聞き終えたごろに昼食の時間だったので、浪江名物なみえ焼きそばをいただきました。
この焼きそば、普通と違うのは麺の太さがうどん並みに太いのです!触感は焼きそばなのですが焼うどんを食べているかのようです。味はソースがしっかり絡んでとても美味しかったです(*^▽^*)
敷地内はとても広い芝生が広がっておりとてものびのびしていて気持ちが良いです。
これはかつて双葉町の町中にあったアーケードモニュメントです。老朽化で処分が検討されましたが、こうして残しているようです。実際、館内の解説もありましたが、原子力発電と町の関係は密接でモニュメントなど至る所で見ることができたようです。(詳しくは実際に行って探してみてください。)
本当ならばこんな事態が起きたことでこの標語は一刻も捨て去りたいところですが、それでも残すと決めたのは未来にこのまちで起きたことをありのまま伝えたいという意思が感じられ、以前別の記事で紹介した長崎県諫早市眼鏡橋の件のように数十年後に生まれてくる人にもちゃんとこの出来事を知ることができる大事な取り組みだなと感じました。
伝承館の展望デッキにて。目の前に見える建物が産業交流館。そして、奥の方には海も見えます。海がすごく近いのが印象的でした。震災以前は夏は海水浴ができたそうですが、現在は高い堤防ができてしまい、昔の面影は残っていないようです。
海のそばまで行ってきました。このまちは原子力災害の印象が強いですが、実は津波の被害も相当大きいものだったらしく、伝承館周辺とかも人家が流されて亡くなった人いるということです。このまちの一番悲しいことは原子力災害によって町の立ち入りができなくなったことによって津波で流された人の捜索活動が約1か月以上ができなったことです。もしもこのような立ち入り規制が無ければ、助かった人も少なからずいたそうです。。それだけ原子力発電の事故は多くの犠牲を生んだ悲しいことだということを改めて感じました。
最後に私のお気に入りの場所をご紹介。
産業交流センターの屋上はこうして展望デッキとなっており周囲360度見渡すことができます。
海と山そして青空に囲まれたどこにでもあるような田舎な風景ですがそれがとても美しくきれいだと思うのです。シンプルでありふれた日本のこの風景が私は好きです。
原子力災害という多くの苦難を少しずつ乗り越えようとして歩みだしている双葉町ですが、今後も定期的に足を運んでまちが復興していく様子を見届けられたらなと思います。将来的にはこの周辺は福島県復興記念公園となる予定ですので今後もっと多くの人に来てもらって多くの人に今の現状を知ってもらいたい、そして国民一人一人がこのまちのことを想っていただけますと私もうれしいです。是非、この記事を読んでくださった方々が一人でも多くの人がこの地に足を運んでくれることを願っています。
以上双葉町からのレポートでした。
・おまけ
因みですが、現在双葉町は多くの地域で帰宅困難区域となっておりカントリーサインを撮影することは極めて困難です。
しかし、唯一国道6号の浪江町境はちょうど境界部分が帰宅困難区域の境界であるため合法的に撮影できます。しかし、この双葉町の標識が立ってる場所を越えると法的にマズいので気を付けて撮影ください。あと、周辺はやはりパトカーが多いのでくれぐれも気を付けて下さい。(堂々としてれば大丈夫ですが、万が一のトラブルがあっても自己責任でお願いします。)
youmyan